NO.0012 2004.02.04発行

《 ワークショップから・・・ 》

庄田武之です。

ボーっとしている内に1月が瞬く間に過ぎ、もう2月になってしまいました。
年初めが暖かかったのに例年並の寒さになって来ましたが如何お過ごしでしょうか。
そう言っている内に春が来て、暖かくなって行くのでしょう。
そんな感じで作ってみた作品があるのでまずご覧に入れたいと思います。

http://www.shoda-jewels.co.jp/img/N0119.jpg ←クリック

また新しいものが芽吹くようなイメージなのですが如何でしょうか。
こういう自然に見られるものをモティーフに作品作りをする事が多いのですが、それはやはり自然が最も美しいと感じているからです。

昔々の話です。
まだ私が中学三年生の終わり、美術の時間に、中学最後の授業だと言う事で先生が「美とは一体なんですか?」という質問をされ、私も含め数人に意見を求めた事がありました。
結局ある友達が述べた意見が、ほぼその総括的な答えのようになりましたがその意見と言うのはこんなものです。
「美というものは、事象としてそれだけで存在するものではなく、美しいと感じる心の中にのみ存在するもので、誰かが美しいと思えばそれはその人にとって美しく、他の者が美しいと思うものである必然性は無い」といったことでした。

なるほど確かにその様にも思えるのですが、どうも私には何か引っかかるものがありました。
美の定義をするなど恐れ多く、そういうことではないのですが、例えば、オーディオを使って音楽を聴いていて、初めは綺麗な音だと思っていてもシステムアップしてみるともっと良い音になってきます。 どんどんシステムアップしていく内に音はどんどん何でもない自然な音に近づき、澄んだ美しいものになってゆきます。 (システムアップにお金を掛ければ良いって物じゃないでしょうが、まあ例えばの話です。)

そうなった時に、初めの音はとても美しいとは思えないでしょう。 でも、その時は美しいと思ったのだから、やはりそれはその時の美だったんだと実感できるでしょうか。
しかし、それではあまりに刹那すぎるように思えるのです。

友達の意見を否定するものではないし、それは確かにその通りなのでしょうが、もしかしたら、本当の美というものが存在し、それは誰が何時見ても感じてもやはり美しいものであるのかもしれないと思うのです。
そしてそれは、やはり自然の作り出すものなのだろうなと考えています。
よくよく見れば不調和な色の組み合わせでも、自然の景色はやはり美しいものです。

自然の石を使い、自然の営みをモティーフに作品を作りたくなるのは、その為かもしれません。

とはいっても、一体どこまでが自然と言えるのかが問題になって来るのでしょうが、その事については次回、天然の宝石について書きたいと思っています。

それはそうと、美術の時間の私の意見はどんなだったかですって?
とっても恥ずかしくて、そんな事書けません。